永遠の半分が思い出に変わるまで
愛犬が旅立ちました。
18歳2ヶ月、中型犬サイズの雑種犬としてはかなりの大往生だったと思います。
以前にいた先代の2匹を半年ほどで次々見送ったあとすぐに迎えた仔犬でしたが、幼い頃は本当に病弱な子でした。
生後数ヶ月でパルボウイルスに感染していたことが判明。母犬からもらってきてしまっていたものでした。
こんなにすぐに新しい家族をまた失いたくなかったから、懸命に看護したけれど…まさかここまで長生きするとは当時は全く想像できませんでした。
17歳を過ぎるくらいまでは老犬とも思えない元気さで、スタスタ歩いて散歩もできていたのですが、昨年の秋頃から一気にいろいろなことに襲われました。
病気で寝込んだりとか、そういったことではなく…犬の「認知症」というものを、初めて経験しました。
衰えながらも体力はあるぶん、徘徊したり、夜泣きが始まったり…この数ヶ月は家族全員でかかりきりの状態でした。
「老犬って普通寝たきりなんじゃないの?」と思うくらい動き回って、転んでもすぐに立ち上がって…根性あるねえって笑ったりもしました。
鳴きわめくその姿は赤ちゃんのようでもありました。赤ちゃんと違うのは、この先に未来がないことでした。
どんなに懸命に介護しても、これ以上の回復はないこと、もう残された時間はわずかであるということを思うとつらくないというのは嘘になります。
憔悴した家族同士でのトラブルも何度もありました。
終わりが見えないつらさと、終わるということはこの命が尽きるということであるという現実に挟まれて苦悩もしました。
ただ、私が最終的に望んだことはひとつで。
本当に歩けなくなっておそらくまだ1ヶ月かそこらで、ほんの一週間くらい前までは1日3食の勢いでゴハンもモリモリ食べていたけれど、一旦崩れ始めてからあっという間でした。
最期は何も痛みや苦しみに見舞われず、静かに本当に眠ったまま旅立って行きました。
私がただひとつ望んでいたことは叶いました。いつか来る「死」であるならば、穏やかなものであってほしいという願いは。
鳴きわめく声に飛んで駆けつけていた日々から、そう数日も経っていないのにもう懐かしく思えます。
頭では理解していても、どうしても家に帰ってドアを開けたり、振り向いただけでそこにいるような気がしてしまいます。
時間をかけていくしかないと思います。18年間、あたりまえにそこにいてくれたので。
後悔を挙げだしたらキリがありませんが、家族全員本当にこの数ヶ月出来る限りの事をしてきたので悲しいけれど少し穏やかでもあります。
これからいくらでも自分のことに時間を使えるのに、たったの数ヶ月で自由の使い方もあまり思い出せなくなってしまいました。
つらい日々でもあったけれど、最後に力強すぎるくらいに「生」を刻みつけてくれたな、という思いもあります。
タイトルは野猿の「夜空を待ちながら」の一節です。
この曲のことをふと思い出して聴いていたらあまりにも歌詞がしみてきました。
野猿は私の青春で、その野猿がまだ活動していた2000年に生まれた子だったことを考えると、本当に長く生きてくれたと思えます。
ずっと一緒にいてくれてありがとう。