12年ぶりに「推し選手」が目の前のピッチを駆け抜けた日
ずっとこの日を待っていた。でも、叶うことはないのだろうな、という気持ちもあった。
だからにわかには信じられなかった。4年間という短いプロ生活にピリオドを打ち、11年前に引退した大好きな選手がまた目の前のピッチを駆けぬける姿が観られる日が来るなんて。
2002年の日韓ワールドカップでにわかにサッカーに興味を持った私が単に「地元のテレビ局で試合が映るから」という理由だけで浦和レッズの試合を観るようになり、スタジアムや練習場にまで足を運ぶほどのめりこむまで、そう長くはかからなかった。
練習場で選手たちを見ているうちに興味をもちはじめたのは、若手の選手たち。
トップチームが優勝争いなどで盛り上がる一方当時の若手選手たちはそのほとんどがトップチームへの帯同すら叶うことなく、華々しいトップチームと苦汁をなめさせられ続けるサテライトチームでチームは二分していた(チーム全体の仲は良かったし、雰囲気が悪いわけではないけれど)。
そんな苦しい状況の中でも日々練習を積み重ね、練習試合やサテライトリーグの試合をこなす若手選手たちの姿にいつしか私は夢中になっていた。
その中でも、2005年頃からとりわけ注目するようになった選手が一人いた。それが、2004年に浦和レッズユースからトップチームに加入した新井翔太選手だった。
なぜ、いつから翔太(あえて普段通り呼ばせていただきます)に惹かれていたかは正直まるで思い出せない。
練習場で見せる個性的でユニークなキャラクターに惹かれたからかもしれない。それ以前に応援していた徳重健太選手(現・Vファーレン長崎GK)が移籍してしまったショックで次に注目すべき選手を無意識に探していたのかもしれない。とにかくいつの間にか彼を目で追いかける日々が続くようになっていた。
翔太は入団時はFW登録だったものの、器用であるがゆえにサテライトリーグ等では様々なポジションを任せられる「便利屋」だった。サイドもボランチもDFも、右でも左でもどこでも入っていたと思う。
器用といえば聞こえはいい、けれどひとつのポジションで勝負することもできず、歯痒い日々が続いていた。ただでさえトップチームと実力差が大きくあった当時のサテライトチームにおいて、怪我が多かったこともあいまって彼のおかれる状況は非常にきびしくなっていった。
当然彼自身がいちばん悔しかったはずだけど、練習場などで見かける彼はいつも明るく、ムードメーカーのひとりだった。そんな姿に私はますます惹かれていった、けれど…
浦和レッズがJリーグの王者となった2006年末。翔太はチームからただひとり戦力外通告を受けることとなった。
その後愛媛FCに移籍が決まりリーグ戦デビューを果たした翔太を遠くから応援していた私は(その年は期限付きも含めて浦和から愛媛への移籍が多かったこともあって)できるかぎりの情報収集や、関東圏での試合を観に行ったりもしたものの、翔太が出場した試合を生で観ることはできなかった。
そして2007年末。新井翔太という選手は浦和で3年、愛媛で1年の4年間という短いプロサッカー選手生活にピリオドを打ってしまった。
まだJリーグのチームを応援し始めて5年程度だった私にとって、応援していた選手がこんなにも若くして現役を引退してしまうということは予想外で、本当に大きな衝撃を受けた。
正確にいえばその悲しみを払拭できないまま今日まできていた。浦和を応援しているし試合には足を運ぶものの、そこまで熱心に情報を集めたり練習場に通うようなことはほとんどしなくなってしまった。「一人の選手に入れ込むのはもうやめよう」と密かに誓っていた。それくらい応援していたし、それくらい悲しかった。
どうしても心の整理がつかなくて、たびたび情報を検索しようとしたりしたけれど…すっかり一般人である彼の情報がネットで簡単に見つかるはずもない。この11年の間に掴めた彼のその後のことはチームメイトなどが発してくれていた本当にごくごくわずかなもの。
プロでなくとも、サッカーを続けたりはしているのだろうか。それ以前に、元気に暮らしているかどうかすらわからない、知りようがない。彼と同世代の選手たちの多くは、いまもまだ現役生活を続けているのに…。
浦和レッズのOB会はここ数年はほぼ毎年、年に1回のペースでOB戦を開催していて、そのたびに「いつか翔太もこの場に立ってくれる日が来てほしい」と願っていた。
でも、浦和ではリーグ戦出場を果たすこともなく引退してしまった選手が、また「浦和レッズ」の一員として戻ってくれることなんてあるのだろうか?とも考えていた。
翔太は現役引退する際、最後に書いたブログにサッカー選手としての生活は「辛い事の連続」であったと綴っていたのが、私の記憶にこびりついてもいたから。願い続けてはいたけど、期待はしてはいけないような気がして…。整理のつかない気持ちは、何年経ってもどうにもできないままだった。
だから今年開催されるOB戦の浦和レッズOB選手メンバー表を見たとき、信じていいのか戸惑った…というよりも何が起きたのかわからなかった。そこにはたしかに、10年以上待ち続けていた「推し」の名前があったのだ。
今年は例年以上に色々とあってボンヤリした日々を送っていたのでOB戦の日程すらきちんと確認しておらず、仕事を入れてしまっていたけれどなんとか試合に間に合うよう時間を調整してもらってNACK5スタジアムへと向かった。ウォーミングアップなどには間に合わない。すでに試合開始直前となり、大宮・浦和両サポーターでにぎわったスタジアムへと足を踏み入れる。
ベンチ側に浦和OBの選手たちが揃い始めているのが見える。そこに、いる、のか?と緊張しながら目を向けた直後に、出場選手の入場アナウンスが始まった。
アウェーである浦和の、50音順の選手入場。心の準備などする間もなくその名前が呼ばれた。
「新井翔太選手!」
慌ててこのためだけに購入した安い双眼鏡を覗きこむ。この目で見るのは12年ぶりだけど、変わらない笑顔で翔太がピッチ上に並んでいた。
往年の選手たちが大勢集まったOB戦。いまだ現役時代を彷彿とさせるような選手もいれば、動きそのものが「ご愛嬌」な選手もいる。そのおおらかさが楽しい。
そんなOB戦そのものが大好きな催しでもあるので、試合に集中したい気持ちはあるもののどうにも落ち着かない。控えに推しがいるのだ。10年以上、元気に過ごしているのかどうかすら知ることができなかった推しが。
立ち姿、アップする姿、歩く姿。いままで思い出そうとしてもどうだったかなんてきっと説明もできなかったのに、目に入ってきた瞬間にそれらすべてが「あの頃のままだ」と脳に沁み込んでくる。
そして、後半開始とともにいよいよピッチに立つときがやってきた。
ふと、浦和に居た時代のことを思い出す。毎試合のようにポジションが変わっていた彼はこの試合ではどのポジションを任されるのだろう…?
答えは右サイドだった。実は私にとってはこれがとても嬉しい事だった。毎度練習試合やサテライトの試合を観ていたとき、サイドを駆けていき、時には攻撃に参加する翔太がいちばん好きだったのだ。
…とはいえ、選手交代の流れで途中から右から左にポジションが変わっていたのだけど…「相変わらず便利屋さんだなあ」と内心苦笑してしまった。でも、当時はやきもきしたそんな気持ちも、今となっては懐かしくすら感じる。
例年のOB戦は駒場開催の無料試合で、どちらかというとおふざけ要素が強いことが多かったけれど今年は大宮開催でそれもクラブ創立20周年という記念の試合。ふだんのOB戦よりも「ガチめ」な印象だった。
そんな中で、翔太は後半フルで出場。メンバーの中では若手とはいえ、10年以上前に現役を退いている。そんな彼が、大きな活躍こそなかったけれど…よく走って、良く動いていたと思う。
当時は練習場にさえ行けば、当たり前のように観られたその姿。これだけ長い時間が経っていたのに、あまり変わっていなかったようにすら思える。でも、次があるかはわからない。そんな覚悟であのとき浦和での最後の日々を観られていたかどうかすらもうはっきりは思い出せないけど、今回こそは悔いを残さないようにとその姿をしっかり見守った。
彼のプロ生活は華々しさとは縁遠く…浦和ではトップの試合に出ることもなかったから、レッズサポでもしっかり覚えているひとはきっと多くはないと思う。
それでもプロサッカー選手として浦和に在籍した日々があって、少なくとも私は確かに心掴まれていた。
あっという間に引退してしまった彼をきちんと見送る事すら叶わなかった私にとって、このOB戦は長い時間を経ての「引退試合」のようなものだったのかもしれない。
もちろん、願わくば今後のOBの試合にも顔を出してほしいけど…ね。
皆の心に残るスター選手ではなくとも、たとえばスポーツ以外でもアイドル、俳優、歌手、アーティスト…さまざまな業界で、人前で活動をする以上誰かの心を強く掴む存在というものは生まれ続けると思う。
その存在が、誰かと共有できるものではなくても、自分の中では唯一無二の存在で、たとえ目の前から姿を消してしまっても輝き続けるということは、本当に物凄い事だと思う。
辛い事の連続だったかもしれないけれど、プロサッカー選手になってくれて、浦和に在籍してくれて、そしてこうして、また浦和の一員として名を連ねてくれて本当にありがとう。これからも翔太は私の中では決してその輝きが掻き消えることのない推し選手です。
永遠の半分が思い出に変わるまで
愛犬が旅立ちました。
18歳2ヶ月、中型犬サイズの雑種犬としてはかなりの大往生だったと思います。
以前にいた先代の2匹を半年ほどで次々見送ったあとすぐに迎えた仔犬でしたが、幼い頃は本当に病弱な子でした。
生後数ヶ月でパルボウイルスに感染していたことが判明。母犬からもらってきてしまっていたものでした。
こんなにすぐに新しい家族をまた失いたくなかったから、懸命に看護したけれど…まさかここまで長生きするとは当時は全く想像できませんでした。
17歳を過ぎるくらいまでは老犬とも思えない元気さで、スタスタ歩いて散歩もできていたのですが、昨年の秋頃から一気にいろいろなことに襲われました。
病気で寝込んだりとか、そういったことではなく…犬の「認知症」というものを、初めて経験しました。
衰えながらも体力はあるぶん、徘徊したり、夜泣きが始まったり…この数ヶ月は家族全員でかかりきりの状態でした。
「老犬って普通寝たきりなんじゃないの?」と思うくらい動き回って、転んでもすぐに立ち上がって…根性あるねえって笑ったりもしました。
鳴きわめくその姿は赤ちゃんのようでもありました。赤ちゃんと違うのは、この先に未来がないことでした。
どんなに懸命に介護しても、これ以上の回復はないこと、もう残された時間はわずかであるということを思うとつらくないというのは嘘になります。
憔悴した家族同士でのトラブルも何度もありました。
終わりが見えないつらさと、終わるということはこの命が尽きるということであるという現実に挟まれて苦悩もしました。
ただ、私が最終的に望んだことはひとつで。
本当に歩けなくなっておそらくまだ1ヶ月かそこらで、ほんの一週間くらい前までは1日3食の勢いでゴハンもモリモリ食べていたけれど、一旦崩れ始めてからあっという間でした。
最期は何も痛みや苦しみに見舞われず、静かに本当に眠ったまま旅立って行きました。
私がただひとつ望んでいたことは叶いました。いつか来る「死」であるならば、穏やかなものであってほしいという願いは。
鳴きわめく声に飛んで駆けつけていた日々から、そう数日も経っていないのにもう懐かしく思えます。
頭では理解していても、どうしても家に帰ってドアを開けたり、振り向いただけでそこにいるような気がしてしまいます。
時間をかけていくしかないと思います。18年間、あたりまえにそこにいてくれたので。
後悔を挙げだしたらキリがありませんが、家族全員本当にこの数ヶ月出来る限りの事をしてきたので悲しいけれど少し穏やかでもあります。
これからいくらでも自分のことに時間を使えるのに、たったの数ヶ月で自由の使い方もあまり思い出せなくなってしまいました。
つらい日々でもあったけれど、最後に力強すぎるくらいに「生」を刻みつけてくれたな、という思いもあります。
タイトルは野猿の「夜空を待ちながら」の一節です。
この曲のことをふと思い出して聴いていたらあまりにも歌詞がしみてきました。
野猿は私の青春で、その野猿がまだ活動していた2000年に生まれた子だったことを考えると、本当に長く生きてくれたと思えます。
ずっと一緒にいてくれてありがとう。
やっぱりわたしには日記帳が必要だ。
ササナミです。ブログ(雑食商店街3373番地)をやっていたりツイッター(@sasanami )をやっていたりする一般市民です。
長年続けてきたはてなダイアリーをひっそり閉じて一本化しようと思ったブログすらちゃんと更新できていない人間が言う台詞か!と思いつつもやっぱりわたしには日記帳が必要だと感じたので勢いでアレしました。
ツイッターにかまけてばかりで「文章」を書くことを忘れすぎている。連続ツイートと一本のブログを書くことって同じようで全然ちがうなーと思った今日この頃です。
というわけでノンジャンルかつ特にオチが用意できないようなことでもなんでもいいから書くための日記帳を用意しましたよ。立派なチラシの裏として育てていきたい。
そこそこちゃんと使ったうえで「やっぱりわたしには日記帳が必要だった!」と思えたら成功ということにしましょうか。あやふやな判定基準。
ツイッターほどてきとうじゃなく、でも適度に頭使って書きたいね!死ぬまでに少しは頭使っとこう!